2011年3月11日、明治初頭に「国家の夢」を託された野蒜港の建設区域(石巻市の石井閘門から北上運河、 東松島市浜市の市街地跡、野蒜海岸、東名運河、防波堤を築いて外港を守る役目の宮戸島)は、 巨大津波に悉く呑み込まれた。運河は瓦礫で埋め尽くされ、明治の面影を残していた煉瓦橋台のいくつかは跡形もなく流された。 | |
突堤を完成させた土木局野蒜出張所の第二代所長黒澤敬徳の功績を讃えた「紀功の碑(明治17年)」は、 土台ごとさらわれて数十メートル先に転がり、「野蒜測候所の碑(昭和20年)」は驚くほど遠くに運ばれて土台を分解され、 土木学会選奨土木遺産の認定を記念した「野蒜築港跡の碑(平成13年)」も運河の岸に落下した。 | |
震災前は左画像松の木後方のコンクリート構造物横に建立、 30~40m土台ごと流され裏面を上に倒壊、傍らにあった石製ローラーはやがて新鳴瀬川川底で見つかった。 | |
やがて散乱したものは集められ、一部は元の場所に建て戻された。 市街地跡の遺構とモニュメントは、震災前よりも少なく、波に削られていて、それなのに、 大津波に傷つき耐えた力強さを加えて、明治初頭の為政者の希望、技術者の苦悩、地元民の期待を語りかけてくる。 そんな中で、崩れた護岸の下から、悪水吐暗渠の吐口が現れるという新発見もあった。 | |
野蒜築港資料室は2階にあったので資料の流出は免れるも、1階が全壊のため2012年11月解体された | |
野蒜築港に関する施設群も津波により多大な被害を受けた。 | |